【有限会社大橋量器】伝統産業で新たなニーズを生み出すアイデアと手法

節分の豆まきや酒器として使われる「枡」の生産量は、岐阜県大垣市が全国の8割を占めています。生活様式の変化などで枡業界の需要は落ち込みつつある中、新しい枡の使い方を提案し、ニーズを生み出し続けている大橋量器の大橋博行代表に話を伺いました。

有限会社大橋量器 大橋博行代表

―大垣市で1950年に創業。枡メーカーとしては、後発でしょうか?

大垣市で枡づくりが始まったのは1890年。最盛期には市内に9社の枡メーカーがありましたが、うちは後発です。我々が始めた頃は、農業で枡が計量器として必要だった時代なので、1950~1960年代ははかりで生計を立てていました。しかし、法改正ではかりの検定が簡略化された後は、大手酒造メーカーが枡を日本酒の販促品として打ち出したことをきっかけに「枡は日本酒を飲む器」とニーズが変化します。

―酒器としての需要は、大手メーカーが戦略的に打ち出したものだったんですね。

うちは酒造メーカーとのつながりが弱く、売り上げが落ちていました。先代の父親から売上1億と聞いていたのに、私が継いだ1993年には5,600万まで落ち込んでいました。

―年商が半減した状態で継業には苦労があったのでは。

全国営業で酒造メーカーに直接出向きましたね。4年後には売上が8,000万を超えたので「枡酒の需要はまだある」と思っていたんですが時代の流れで酒の楽しみ方が変わり、枡の需要が縮小して5年目から下降。これで決定的に業界が衰退すると分かり新しいチャレンジをせざるをえなくなりました。

―強い危機感を感じてすぐ、新しいものづくりを始められたんですか?

8年目でも違う業界での枡の活用方法を悶々と考えていましたが全く良い案が浮かびませんでした。枡がインテリアにならないかと考えながら東京に出向き、雑貨店で商品タグを見て提案先を探し、試作品を持って各社に飛び込んだりしました。

―手探り状態で新しい商品開発が進み始めたんですね。

最初は、提案先で採用されて漆塗りの枡を作りました。漆を塗る技術はなかったのですが、とんとん拍子で話が進み、東京ギフトショーのメイン商材に。初めて違う業界で成功できそうなイメージを持てました。
しかし、100セット程度の注文を予想していたのに3,000セットの受注で困ってしまった。死に物狂いで中古設備や人を集めたけれど品質や納期がうまくいかず、結局は返品の山。何百万の大赤字でした。

―新しい枡の開発は軌道に乗らなかったんですね。

自社の強みを生かしながら横展開するのがセオリーなのに、「塗り」という経験のないスキルに手を出したのは大きな反省点でしたね。
しかし、世の中が独自のオリジナル商品を求める流れに変わり始めていると気付いたんです。特注への問合せが増え始めた頃に取り組んだのが「NOと言わない営業」。製作機械と合わない特注品も手作りで何とかしました。

―特注品での挑戦で印象に残っている商品は?

大分のお寺から「八角形の枡を30個作って」と言われた時はさすがに断ろうかと思いました。新たに機械パーツを作るなど多額の費用がかかる上、10回やって1回成功するような状態でしたね。でも、それを納めることができて、今も八角形の枡が商品として売っているので無理してやった経験が生きていると思います。

―お客様のニーズに挑戦することで、自社のスキルが高まるわけですね。

その後、漆塗りの問合せも増えました。失敗したのは3,000個だけど50個なら大丈夫など具合が分かり、弱みだった商材も時間が経って強みになります。
こういった商材が工場にたまっていくので何とかしたいと工場の一角に店舗を作りました。店があることで外部からうちを理解してもらえる窓口ができました。

メディアに取り上げられ、新たな枡の価値観を発信

―店舗ができたことで、テレビや新聞などマスメディアから注目されるようになりました。そのきっかけは?

店舗工事中にテレビ局の方がたまたま訪れて「枡を売る店を作る」と伝えたら目の色が変わったんです。その時は直近の撮影日にどうにか間に合わせるよう、急ピッチで店を仕上げました。
その後も旅番組のロケが偶然に前を通るなど、店ができててすぐ人気番組で立て続けに取材されました。「私たちが作った物を何とか見てもらいたい、買ってもらいたい」という思いがそういう結果につながりましたね。

―その後、世界的ファッションブランドの「ポールスミス」で自社商品が販売されるなど枡の可能性が一気に広がります。

カラフルなキッチングッズが流行した時期に「枡もコスメしよう」という合言葉で開発した「カラー枡」ですね。枡にカラフルなグラフィックを印刷した商品です。
ただ東京ギフトショーでは受注はゼロ。しかし、ニューヨークのギフトフェアで受注が入り、5番街のポールスミスで販売されました。数は70個ですが非常にブランド力の高い場所で商品を扱ってもらえたのがうれしくて思わず現地から新聞社に自ら電話をしました。その後ヤフーニュースのトップに載り、そこからカラー枡の問合せが入るようになったんです。

―東京ギフトショーでは全然見てもらえなかったのに……。

メディアに取り上げられると、まるで枡が世界に進出したみたいに映るんですね。「枡が売れている」「世界でカッコよく思われている」という世界観が伝わったのが成果として大きかった。
後に、ニューヨークのMoMAで扱ってもらったのもメディアに取り上げてもらいやすかったです。もちろん商品が売れるのが一番ですが、我々として狙っていたのはメディアでした。

―新しい挑戦へのアイデアは尽きないと思いますが、コロナ禍の影響は?

2020年3月に昨対で売上が18%減。4月に半分、5月にとうとう75%減になりました。何とかしなきゃと思いつつも、当時は「以前のように戻る」と私自身は思考停止していて。そんな中で営業チームが「コロナ禍に対して手を打とう」と自分たちで商品開発をしてくれた。私がへなちょこになっている時に頑張ってくれて、クラウドファンディングで300万を集めたり、ヒノキシートを入れたマスクの開発や枡のパーテーションを作ったり。「いま売上を作る」という行動を起こしてくれた社員に救われました。

―そういった提案ができる若い社員が育っているんですね。

みんな自分たちで考えてくれます。「枡を新しく世に打ち出す」のは全て初めてのこと。新卒採用時にも「我々は世界初の挑戦の連続だ」とかっこよく伝えています。笑

―ちなみに、問合せで「大橋量器がやるべきではない」とお断りする仕事はありますか?

枡の製作技術を使う部分があるかどうかです。組みや板の圧着、カンナで削る技術があると受け入れることにしています。我々は枡の作り手なので、基準は「これが枡か、枡じゃないか」。我々の技術が活きるかどうかですね。

【今回の取材先】
有限会社大橋量器
所在地:岐阜県大垣市外側町2-8
設立:1950年
年商:2億7千円(2019年度)
従業員数:28名(2021年8月現在)
URL:http://www.masukoubou.jp/

(取材・文:笹田理恵 / 撮影:平山陽子 / 編集:OHACO編集部)