廃業寸前から一転!「自社の強み」を洗い出し、唯一無二の町工場へ 愛知県豊川市・山本製作所(前編)

金属加工業を営む愛知県豊川市の山本製作所。先代である父が急死後、3代目として就任し取引先はたった1社に激減。廃業寸前から立ち上がったきっかけは「自社の強みを洗い出すこと」と話す代表取締役・田中倫子(ともこ)さんに中小企業の生き残り戦略について話を聞きました。

―「温もりのある物づくり」という理念を掲げ、1975年から真鍮(真鍮)加工業を営む山本製作所。創業の経緯を聞かせてください。

創業者である祖父は工業研究をする大学教授で、当時出会ったのが現在の主力取引先である日本高圧電気の会長でした。二人は同志で、「電力はライフラインにもっと必要になる」という共通の考えがありました。祖父は下請けを担うから相棒は大きくなって……という関係性。そこで祖父は、都会でビジネスをやるより地元を何とかしたいと地域の人を雇用するための工場を作りました。それが山本製作所です。

災害時に電力の供給をストップするための部品「絶縁筒」は、東海地方におけるシェア100%を誇る

―しかし、創業者の御祖父様と二代目のお父様が早くに亡くなられてしまう。

そうです。祖父も二代目である父も45歳で急死。仕方なく代表権を引き継いだのが、専業主婦の母でした。会社のことは何も知らない状態なので、経営ができなくて当然ですよね。取引先は減り、残ったのは日本高圧電気の主力製品だけ。祖父の代から勤める職人たちが定年になったら会社をたたむつもりで、取引先には他の下請けを探してもらっていたそうです。

―娘である田中さんも「継業」の意志はなかったはず。なぜその後、継ごうと思ったのですか?

雇用される側の経験しかない私は、「会社」がそんな簡単になくなるという感覚を持っていませんでした。

ある日、母に「廃業しようと思う」と聞かされた時、「私は何かしてあげられた?」という疑問とともに「継ぎたい」という思いが強くなって。ただ、その翌年には病院を辞めスキルアップのために大学へ通う予定だったので、すごく迷いました。

―大好きな看護師の職を離れることに葛藤があったのでは。

子どもが二人いる状態で、まとまったお給料を頂ける看護師を辞めて経営難の会社を継ぐだなんて、相談した人全員に反対されました。しかし、継ぎたい思いが消えなかったので、「背中を押してくれる人は誰か」と考え、当時の上司であるドクターに相談。すると「ポテンシャルがあるんだから、やらなくてどうする」と唯一言ってくれて。「看護師は、いつでも戻れる」と。やってみれば、と応援してくれたのはその人だけでした。背中を押す一言が欲しかっただけで、自分の中では決まっていたと思います。

経営や製造業の知識もなく、会社が何の仕事をしているかも知らない状態で「きっと会社を長くは残せない」と感じていましたが、父の体がなくなった以上、最後にしてあげられる親孝行のはこれしかないと。

「自社の強み」の洗い出しをして、廃業寸前の危機から脱出

代表取締役・田中倫子(ともこ)さん

―未知の製造業で代表に就任。どのように仕事を学んだのですか。

まず会社をゾーン分けして4年間内勤し、機械操作も含めた仕事を覚えました。そこで分かったのは、「このままじゃ10年後にこの会社はない」ということ。それを肌で感じたので、私が経営をしなければいけないと。原発問題の煽りも受ける中、電力一本ではやっていけないから、対外的なつながりをつくらなければと思いました。

―経営者として、事業を立て直す「核」となった考え方を教えてください。

まず、製造業の「新しいものを受け入れない」「社内のスキルは隠す」という体質がもったいないと思っていました。なぜなら、中小企業一社の体力は微々たるもので、横のつながりで助け合わないと大手には勝てないから。むしろ会社それぞれの弱い部分や取り柄を共有し合うからこそ助け合えるはずと。

しかも、案件ごとに身近な中小企業がライバルとなり、最終的には「コストダウン」というフィールドに立たされる。本来仲間であるはずの会社と競い、蹴落として、ようやく仕事が取れるのが中小企業。それが当たり前だと思っていましたが、全然楽しくなくて。ずっとこれを続けるのは嫌だったので、このフィールドにはなるべく乗らないと決めました。

祖父の代から受け継ぐ古い機械も現役。メンテナンスさえ怠らなければ、ずっと使える頼もしい存在

―無理にコストを下げてでも仕事を取る風習は、製造業に限らない慣習だと思います。そのフィールドに乗らないと決めてからどのような変化がありましたか。

そこから抜け出し、きれいごとではなく利益を上げられる方法を考えていたとき、先代たちが作ってきてくれた多く「引き出し」=「強み」があると気付きました。そこで、会社が今までやってきたことやバックグラウンド、私が培ってきたスキルや経験の引き出しを何でも洗い出す、という作業をやりました。「新しいものを作る、新しいことを始める」ではなく、今までしてきたことに目を向け、自分の会社の強みやバックグラウンドを活用することを意識したのです。

他社には「うちの仕事なんて」「良い機械がない」とおっしゃる方がいますが、気付いてないだけで強みはどこでもあります。そこに目を向けられていないだけで、新しいものが全てじゃない。無駄だと感じつつもずっと続けてきた習慣が、今こそ生きてくる自社の強みかもしれない。

例えば、小さいことですが幼少期に習わされていたピアノも、音楽の好きな取引先と話題が弾むきっかけになったりします。何事においても無駄はありません。そこにどれだけ日々気付けるかで、未来が変わっていく。会社の強みや社長の人間性など、まだ気付いていない強みを探す作業は誰でもすぐできるので、中小企業でぜひやってみてほしいことです。私自身も気付かないときがあるので、うちでは従業員みんなで強みを探しています。

発想の転換から見えてきた「自社の強み」とは

工場全体の風景。平均年齢37歳で、製造職人として女性が多く活躍している

―発想を転換し、ようやく気付けた山本製作所の強みは何ですか?

うちの会社の強みの一つは、「フレックス制度」でした。精神疾患のある従業員がいて、朝出勤が難しいからと以前から導入。そのおかげで大手が働き方改革で17時以降に稼働できなくなった案件をうちで引き受けることができたんです。

その上、「3日後に完成する物が、ここに出せば1日で仕上がるから倍払う」と、コストダウンどころか特急品として付加価値を付けてくれるように。そういった引き受けを続けていたら「あそこに頼めば何とかしてくれる」という口コミが広がりました。

全てをオートメーション化するのではなく、手作業の工程による調整も重要視している

―金属加工業の駆け込み寺になったんですね!

うちは製造部に「お困りごと相談所」という部署があります。例えば、「大きなラインで18時に部品が故障。止まると何百万の損害が発生するから、明日の朝には稼働させたい」といった相談が入ります。普通は、翌朝に部品を揃えるのは無理。でも、何百万の損害を埋められるなら、少し多く払ってもいいと思うじゃないですか。それはお互いにとって良い関係性。こういう誰かの「困った」を仕事にしたいと思いました。

みんなができることでは争わない。うちの強みで、うちのできることをする。最低限の設備しか入っていなくても、仕事の姿勢を信用して依頼してくれる方もいるんです。良い機械を持っているから仕事が来るわけじゃないですよ。

―夕方以降の仕事を受けるにあたって、ただ残業だけを強いるブラック企業と化すわけではなく、フレックス制度で社員を守り、取引先にも喜ばれ、さらに商品価値が上がるという、誰にとっても負担がない効果的な仕組みですね。

私は技術者じゃありません。作ってくれる人がいるから、会社が成り立ちます。製造を担う社員も頼られることにやりがいを感じながら「君に頼んで本当によかった」と言われたくて仕事をしています。そういう仕事を生むために私ができることは体制を整えることだけです。社員みんながやりがいを感じながら、喜んでくれるんだったらうれしいですよ。

会社を立て直す中、企業理念に共感し若手社員が入社。納品時に発揮する営業術やコロナ禍のV字回復については【後編】をチェック!

今回の取材先

山本製作所 有限会社
所在地:愛知県豊川市宿町野川1丁目25
TEL:0533-72-2420
設立:1975年5月30日
業種:金属加工業
従業員数:7名
URL: https://yss-brand.jp
(取材・文:笹田理恵 / 撮影:平山陽子 / 編集:OHACO編集部)