「看取りって知っていますか?」自然死の穏やかな看取りとは

最期の1%まで幸せに生きる【 連載 第2回 】

10年前より、私たちの施設でも看取りを始めました。

きっかけは、1冊の本でした。その本は、私の尊敬している税理士多治見のジャイアンからのプレゼントでした。その方も、ある医師からこの本を薦められたと言っていました。

その本のタイトルは実に目を引くもので、『大往生したけりゃ医療とかかわるな「自然死のすすめ」』(中村仁一著、幻冬舎、2012年)でした。

看護師である私は、なかなか強烈で面白いなぁと感じました。

読み進めていくうちに合点がいくことがたくさん書いてあり、医療従事者だからこそ理解でき共感できることもたくさんありました。また、病院勤務時代の「なぜ?」の答えもこの本の中にはありました。
例えば、こんな文章がありました。

「発達したといわれる近代医療であっても、延命治療で死を少しばかり先送りする事はできても、回避できるような力はありません。治せない『死』に対し、治す為のパターン化した医療を行うわけですから、わずかばかり延命と引き換えに、苦痛を強いられることになります」

『大往生したけりゃ医療とかかわるな』より

私自身、たくさんの高齢者を病院で看護していく中で、最後まで点滴をし、酸素マスクをし、尿の管を入れ、胸には心電図の電極をテープで張り、指には酸素の濃度は計る機具を付けている。

患者は常に、苦痛に顔を歪めてきた。そうしなければ、人は死ねないのだと思っていました。

また、私の祖父母も病院での死だったので、当たり前だと思いつつも、私自身死が怖かった。なぜなら苦しみが伴うからでした。

しかし、この本には、自然死は一切の苦痛がないと書いてあり、またよくよく考えると原理原則であることに気付かされ、この本の通りだと感じました。ここから、私の施設での自然死の看取りが始まったのです。

現在までの10年間で、数十人の方の看取りを行い、全ての方が死が近づいてくると、自然に食事を欲することがなくなります。その後、水分も欲しなくなります。

その間、苦痛を訴えることやもがき苦しむことも一人としてありませんでした。ただ、すやすや眠っており、家族が手を握ると握り返したり、最後まで聴力があると言われるように声かけにうなずいたりするなど反応があります。

しかし、最後には永眠されます。
何とも温かで穏やかで、尊い厳かな雰囲気だといつも感じます。

そして、一番驚いたことが、亡くなった後の顔がとても穏やかで、病院で看取ると点滴の独特な匂いがありますが、全てを体から出し切っているので匂いはなく、すっきりとしているご遺体だったことです。
私が怖くて仕方がなかった病院での死は、そこには全くありませんでした。

自然死の看取りを始めて10年がたち今感じることは、高齢で人生を生き切った人にあえて苦痛は与えないでほしいということです。

そして、自然死で看取られる人が増え、命の終わり方を手本として見せることが、次世代の死生観をつくっていくこと、命の教育の一つになるのではないかと最近強く感じます。今後も私たちは、自然で穏やかな看取りを通じて、人生の1%を幸せなものにして最期を送り出したいと考えています。